昭和50年12月18日 月次祭
中村良一
とかくに信心は地を肥やせ。常平生の信心が大事です。常平生に地を肥やしておけば、ひとりでにものが出来るようなものだと、教祖は、教えておられます。地を肥やしておくという事が大事であります。いわゆる、心を肥やしておくのです。心を肥やすという事は、何時も心が平生であり、何時も心が豊かであり、何時も心が喜びに満ち溢れておるというような心を目指すことです。そういう心に、限りなくおかげが頂けれる。そういう意味の事を教えておられます。常日頃の信心。常平生の信心が大事だという事です。
昨夜、日田の綾部さんの所から、電話が架かってまいりました。本当に、まぁいわば、大変な事件ですかね。まぁ普通で言うならば、今日も、お礼に出て見えておられましたが、身震いが出るような事であった。けれども、日頃、信心の教えを頂いて、そして、信心を頂くようになって、この方の事を思わせて貰うた。あの時には、ああいう事であったけれども、お取次ぎを頂いて、かく御教えを頂き、ね。それを、その通りに、おかげを受けてきた過去の事を思われたら、身震いが出るような事柄であったけれども、落ち着いて話し合いが出来た。相手の方も、また、今日見えられて、大変、穏やかに話が、今、進んでおる、その過程のことですけれども。どんなに考えてみてもです。こういうスムーズなおかげを頂かれるという事は、ね。心に平生心がなかったら、出来ることではなかったと、今日は、その事のお礼を申しておられました。
ちょうど、昨夜の心行祈念の時でしたでしょうかね、上野先生が、一生懸命、大祓いの信行をさせて頂いておる時に、ちょうど、綾部さんの事を頂いた。それは、お言葉で、常任という事を頂いた。どういう事であろうかと。それで、私は、それを、まぁ常任と漢字に直してみた。じょうは常、にんは任せるである。常に任せきっておれれるという事。そして、何か、百人一首のような、あのカルタを見ておられるけれども、中の字が、親先生から書いて頂いておる、それが、よく小さくて読めないというようなところも、まぁ頂いておる訳です。ね。そして、ピカソという事を頂いた。ピカソということは分かりませんけれども、ピカソという、世界的な絵描きさんがおります。ね。まぁこの方の絵は、私共、素人ではです。どこが良いのやら分からないように、まぁ素晴らしい訳です。いわゆる、オブジェ風の絵です。なにが何か分からんように、こんなにしてあるけれども、それが、立派な、その画法に叶っておるという訳で、もう大変な、有名な、大変な高価を呼ぶ絵であります。ね。私共の行く手というものは、実際の所分からんのです。どういう事やら。また、一つの問題に直面してもです。どうして、こういう事が起きてくるか分からんのです。また結果も、どういう事になるか分からんのです。ね。まったく、オブジェです。ね。分からんのだけれどもです。ね。神様が、良い様にしかしてくださらない。神様が、より力を付けて下さろうとする働き。よりおかげを下さろうとする働きであるという事だけは、分かるという信心がいただけとかにゃならん。だから、どんな場合であっても、お礼が言えれる。いわゆる、これもやはり、おかげであるという頂き方。そういう頂き方を、今朝の御理解を頂いておると、金光大神の世界とは、そういう世界だと。ね。どこを切って、こう開いて見ても、喜びしか出てこない。どこを切って、こう開いても、おかげだという事だけしか出てこない。そら困ったな、どうするかと。身震いが出る様な事であっても、それは、まぁだ、自分の信心が足りぬからであって、実は、神様の大きな働きの中に起きておる事だからという訳です。
元、あそこの支配人格でおられた方が、その事を聞いてから、まぁ奥さんばっかりは、もう、そういう大切な書類を、あちらに渡してしもうて、どうなりますかと言うて、まぁ心配してこられたと言う。けれども、こちらの出方が、穏やかだったので、先方のほうでも、今朝から、また、その書類を持って、まぁ見えたという様な事だった。もし、あの時に、私の出方が悪かったら、むこうは、それこそ、大変な剣幕、大体、人間の道を外れたような生き方をする人達のすることですから。どんなことするか分からない。それこそ、もう、人相でも、ちょうど会議中に、孫が入ってきましたけれども、その剣幕に、恐れをなしてから、孫が逃げ出したち言うぐらいな事だったそうです。ね。それでもです。やはり、常に任せる心。何時でも、どんな場合でも、親先生にお任せする。親先生のお取次ぎを頂いて起きてくる事であるから、これからとても、やはり、そうだというものが、漠然とではあるけれども、頂けておるのであります。慌てんで済むと言いたいけれども。まぁ心では、穏やかでなかった。ここに、それと会うまでは、やはり、心を落ち着け、過去のおかげの事を思うて、あん時にはああいうおかげを頂いた。あん時には、ああいうお取次ぎを頂いて、こういうおかげになったという事を思うて、これもやはり、そういうおかげの中にある事だと。それで、その上野先生が頂いておるのも、ね。常任という事は、常に任せという事であり、または、神様のご演出と言うか、神様のお働きというものは、ね。もう本当に、人間の、浅い考え方では分からない働き。ね。分からんのです。それが、後で考えてみて、ものの見事に、それこそ、どういうもつれた問題であっても、それが、梳き櫛で梳いたように、すっきりと、こう、解き流されるおかげになって来る。そして、見事に結い上げることが出来るという体験を、次々と頂いておるから、それが出来る。同時にです。それが、何時でも、ね。そういう心の状態でおらせて頂ける事のために、普段の信心が必要なのであります。ね。常日頃に、ね。とかくに信心は、地を肥やせと。常日頃に自分の心を、いよいよ、豊かに肥やしておかなければならない。ひとりでに物が出来るようなおかげを頂くためにも、その精進がなされなければいけないという事になります。
今朝から、皆さんにも、聞いて頂いた事ですけれども。佐賀の、いわゆる、鍋島の葉隠れという、まぁ教訓を集めた本でございましょう。その教えの中に、武士道とは、死ぬる事だと極めたりか、見つけたりかという言葉があります。もう本当に、そうなんです。ね。侍というのは、日頃、いわゆる、禄を食んでおる。殿様のおかげで、賄うて頂いておる。だから、こと一旦、緊急の場合は、その君の御前に、何時でも、討ち死にが出来る腹が切れれるだけの者でなからなければ、ものの役に立つ侍とは言えないぞという事です。ね。先代萩の政岡のセリフではないですけれどもね。
今日、私は、その話を、ちょうど、たまたま、鹿児島の安武先生が見えておりました。それで、まぁだ、あんな若い先生が、お芝居の事やら分かるはずとは思いませんもんですからね。今日の、私が言うた事は分からなかっただろうと言うたら、私よりも詳しゅう知っておりました。セリフをずらっと。ね。三千世界に子を持つ親の心はみな一つ。私が、今日、言うた所の前のほうば言うです。私は驚きました。そしたら、初代のね、いわゆる、安武先生が、何時も、お話になっておった事だから、子供心に覚えておったち言う。ね。歌舞伎芝居の、いわゆる、難しいセリフを、ね。三千世界に子を持つ親の心はみな一つ。ね。死ぬるを忠義という事は、何時の世からの慣わしぞと。今日、言うのは、私がそこであった。死ぬるという事が忠義だという風に決め込んでおる。ね。ところがです、いよいよ、ここに、命をも、投げ出さなければならないと言う時にです。ね。逃げ惑うたりする様な事では、どういう事になるか。それこそ、武士にあるまじきであり、いわば、腰抜け侍という事になるのでございます。ね。信心も、やはり、同じ事が言えるのです。
御道の信心、金光大神のご神縁に繋がって、こうして信心の稽古をさせて頂く者は、どこを目当てに、どう信心を進めて行ったら良いかと。常日頃の信心を大事にさせて貰うて、何時も心が豊かである。いつも心が、地味豊かに越えておる。ね。そこで、何時、どの様な事が起きてまいりましても、ね。驚かんで済む、ね。それもまた、おかげであると実感させて貰えれる信心。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になると、真実の信者じゃと。本当の信者じゃと教えられる。その本当の信者を目指して、日頃、心を豊かに肥やしていかなきゃならんのであります。ね。だから、毎日毎日、肥やさなければならない肥料とか、材料は沢山あるのです。こげな汚かもんな嫌というのでなく。その汚いものこそ、心を肥やす、確かな肥料なのですから、ね。それを、無駄にすることなしに、今こそ、根肥しをさせて頂いておる時だと言う生き方を、身に付けさせて貰うて、そして、なるほど、今日の、綾部さんではないですけれども、ご神縁を頂くようになってこの方、おかげを受けて頂いた事を思うて、あん時にも、それこそ、目の前が、真っ黒なる様な問題が起きてきたり、驚かなければおられないことが起こってきたけれども。いちいちお取次ぎを頂いて、親先生任せになってきて、それを見事に、おかげにしてきておる。ただ、そこを通り抜けたというだけではない。それを、おかげにしてきておる。それが力になっておる。だから、昨日のような、突発的な事が起こってまいりましても。まぁちょっと、時間は掛かったけれども、どっこいという腹が出来て、会うことが出来た。いわゆる、あれもおかげであったという事の体験があるからこそ、これもまぁだ、おかげとまでは頂けんでもです。これも、またおかげになると、確信が出来るという事になるのです。それが、もう少し、だから、気が積んで来ると、もう即、それが、おかげであるという事になるのです。
昨日、私は、高橋さんに、金光様のご信心を、只今いうように、佐賀の葉隠れの中にある、ね。武士道とは、死ぬることだと言う様な、まぁ一言で極めた言葉にするならば、御道の信心は、どういう事になるだろうかと。だから、毎日、ああした熱心な信心が出来られますから、分かるという事に置いては、すぐ分かられる。はぁ今日の御理解頂いてから、今日の御理解の言葉を借りるなら、やはり、金光の信心、いや、金光大神の住んでおられる世界と言うのは、ね。これもおかげであると、即、分からせて頂くことですから。これもおかげであると分かるという事。それが金光大神の世界だと、一言で決めることが出来るだろうという意味の事を言っておられます。確かにそうです。ね。困ったことじゃないのです。それを、困った事のように思うのは、迷いであります。ね。迷いのクモを祓うて、素直に教えを頂くと。神様は、この様にまでもして、本当な事を分からせて下さろうとする、より本当なおかげを下さろうとするという、そのご信用。それこそ、親の心は、みな一つであって、ね。憎うて、この手がかけられようかというのが親心である。
親先生、親神様と言うて、おすがりをしておるものを、どうしたならば、この手でたたくことが出来るだろうか。お前により、もっと力を与えたい、本当な事が分からせたいばっかりの神意だぞ、深慮だぞという事をです、分からせて頂く時に、これもおかげだと分かるのです。そういう世界に住む時に、初めて、金光大神の世界に住んだという事が言えるのでございます。ね。そこを目当てにせにゃいかん。それを目当てにするという事なんです。
先日も、遅うに、私、ここへ座っておりました。もう夜の御祈念も終わって、電気も消してしまって、一人御祈念をして、ここへ着かせていただきましたら、そこに、三四人の人が、誰か参ってきております。それから、ここへ出てきてから、そしたら、何と、日田の梅山さんところの息子さん達が二人、それからまた、新しい方を一人、導きしてる訳です。あらあんた、東京の大学に行っておったが、今度は、帰らんという話じゃったが。お母さんが、それでも、どうでも帰ってくるようにお願いをしてくださいと言う訳なんです。親の切実心が、やっぱ、あんたば、とうとう、神様が、ここへ引き寄せなさった、かえらせて下さったばいなと言うて、まぁ申しましたことでしたけれども。実は、そん時に、一人の同じ学校へ行っておられる。しかも、日田から行っておられる学友の人を導いて来ておりました。今日、帰りました。そして、早速、教会にお礼参拝してきておるのであった。話を聞かせて頂きますと、同じ学校で、同じその勉強をしおるんですけれども、先日から、その方のお父さんが亡くなられた。それで、やむなく、学校を中退しなければならない事になった。まぁ本人としては、それこそ、向学の心に燃えておる。そるけん、それを中断しなければならんのですから、残念に違いはありません。そういう様な悩みを持っておるので、合楽にお引き寄せを頂いて、親先生の話ども聞いたら、すっきりと、まぁするおかげを頂かせたいというのが、梅山君の心じゃなかったろうかとこう思うのです。
そん時に、私、お取次させて頂きましたら、手偏に、カタカナのムという字を頂きました。これは、払うという事になりますよね。手偏にム。ね。本当に、例えば、親を亡くするというほどしの事ですから。大変、難儀な事に違いはありませんけれども。これでね、実を言うたら、払うて下さる。これから、おかげが受けられる。または、どういう事かと言うと。実を言うたら、それは叩くのではないぞという意味なんです。打つのではないという意味なんです。憎いから、叩きよるのじゃないというのです。いじめるのじゃない。まぁそういう意味の事を、初めて参って来た者に言うても分かりませんから。あくる日、お母さんが参ってきたから、お母さんに、その事を、色々話した。お母さんも、今度の十六日の御大祭に、初めてご神縁を頂いておる。本当に、有難いことが、ずっと続いてくる訳ですから、毎朝、お母さんが参ってくる。どうでも、お父さんのあとを継いでもらいたいと言う訳なんです。けれども、その大学を中途でやめて帰ってきた。その意味の腹いせというか。その悩みが、色々ありますもんですから、なかなか、その仕事に手がつかんという訳です。ね。
それで、私は、その晩に、私が、ね。小学校の、高等小学校から、ね。師範の試験を受けるために、勉強に入っておった。受け持ちの先生も、校長先生も、その事を、えらい激励して下さっておった。そうしておるなかに、この筑後軌道に勤めておりましたから、筑後軌道が解散になりましたから、言うならば、収入の道が途絶えることになるのですから。私も、まぁ意を翻して、いわゆる、酒屋の番頭に行くことに決心しました。ね。もし、その時に、私がです、ね。父が、まぁだその、給料とって、私が学校にでも行けれるとしたらです。まぁどうでしょうか、いよいよ、成功して、小学校の校長さん止まりじゃなかったろうか。そこにです、幸不幸の境があったけれども、難儀な事のようにあったけれども、おかげで、今日の合楽があった話を、まぁさせて頂いたんですけれども。まぁ本人に、どの様に響いていったか分かりませんけれど。本人が、その気になって行けば、あれは、打たれたのではない、叩かれたのではない、ね。深いご深慮のあっての事であった。何年、十何年、何十年の後にです、あの事のおかげで、あの時に、それこそ、真っ暗い中に、親先生が、とても御結界に座っておられよう筈のない時間にお参りした時に、親先生が、御結界に座ってござった、そして、こういうお取次ぎをしてくださって、あの時に、こういう御理解を頂いたという事が、その方の、一生の幸福というか幸せの元になるようなおかげを頂いたら、有難いことだと思う訳です。これからでも、神様は、ね。いわば、叩かれるのではない。払うてくださるのだという事です。それを、本当な事が分からん。肉眼をもってみると、それは、人生の難儀という事にしかなりません。決してそうではない。
先ほど、善導寺の、高松順子さんが、お届けに見えました。合楽で、大祓信行が、このように盛んになってきた。皆が、素晴らしい体験を生んで行きよる。どうして、長年、信心させて頂いておって、こういう有難いことに気が付かなかっただろうかと言うて、皆が、大祓信行に打ち込んでおる。しかも、自分だけではない。夫婦であるならば夫婦同盟、親子であるならば親子同盟を結んで、その修行に取り組んでおる。ね。遠方におる子供にも、その事を言うてよこす。そして、あんたの一番良い時間に、一緒に合わせて、大祓信行をさせて貰おうと言う様な、いわば、合楽の一つの、大きな動きに、皆さんも、同乗して、信心を進めて行こうという機運が、非常に高まっておる。そういう中にありますから、昨日、順子さんも、昨日一昨日でしたか、お母さんに電話をかけた。東京におります。そして、今、合楽では、こうこうだからと言うたら、大変、お母さんも喜んだ。ね。そんなら、何時に、一番都合が良いから、まぁちょっと遅いけど、晩の十一時頃、お母さんが、一番身体の空く時だから、十一時から御祈念をするから、順子ちゃん、あんたもほんなら、十一時から、御祈念を親子でさせて貰おう。親が子供に言うて、親子同盟は聞いたけれども、子供が親に言うてやったという親子同盟は、今日が初めてでした。しかし、順子ちゃん、有難いねと。そしたら先生、また、お母さんから電話が架かってきた。順子ちゃんが、電話を架けた朝、言うなら、今朝方、お夢を頂いたのがです。親子の者が、雲の上におるところを頂いたと言うのです。はぁ本当に素晴らしかねて、親が子のために、素直になる。子が親のために、また素直になる。娘の良いことを素直に聞く。親の言うことを素直に聞く。それこそ、素直にて、雲の上までも登る道があると言われる。そういうおかげを受けてくれよという神様の願い。あんたどん親子は、どうでも、雲の上に住まわんきゃならんごたる定めになっとおるとじゃもんねと言うて、まぁ話したことでした。ね。今、御祭りの始まる前でした。ね。今、合楽で、その様なです。いわば、信行。もう、とにかく、それは神様にね、あの御祈念をして上げますち言うもんじゃないです。ご神前には座るけれども。結局は、自分自身の心の中に、繰り返し、大祓いが入っていくのです。だから、大祓いによって、心が清められていくのです。安らぎが生まれてくるのです。喜びが湧いてくるのです。だから、こう言う有難い事を、どうしてという事になる。その有難い心で、日頃、あれも願わんならん、これも頼まんならんという事を、願いもする、お礼を申し上げるのですから、神様に、通わないはずがないという様なおかげになって来る。
そういうね、そういう、私は修行をさせて頂いて、今日の、皆さんに聞いて頂いた、ね。常日頃にです、とかく信心は地を肥やせとある。そういう信心修業をさせて頂きながら、ね。そして、日々の信心に、怠りなく、信心修行を進めて行っておってこそ、初めて、何時、どのような場合であっても、ゆだねられる。任せられる。常任、常に任せる心。そこに、安らぎがあり、喜びがあるという風に思います。
今、合楽で言われておる、心行、大祓信行というのは、もう具体的に、ね。本気で、これもおかげであると分からせて頂く、一番手近な、私は修行であり、手掛かりの信心だと思います。ね。これもおかげであると。起きてくるその事を、これも、はぁこらお母さん、どうしようかと言うて、子供が言うても、いやぁ、そらおかげじゃがと言えれる信心をです。身に付けた時、初めて、金光大神の世界に住むことが出来る。ね。そういう修行を繰り返していくところに、限りない、言うならば、おかげ。ひとりでに物が出来る様なものであろうと言われる。ひとりでに物が出来てくるおかげが頂かれるのであります。
勿論、皆さんも、みんな心行に励んでおられることでありましょうけれども。もし万一、まだ、その心行に取り組んでおられないならば、もう今晩から、早速、心行に取り掛かられる。いや、あなたのためなんです。神様にお供えするとじゃないです。ね。そして、その事が有り難うなる。そして、その事が、自分の身についてしまう。血に肉になってしまう頃にはです。ね。これもおかげであるという事も、一緒に、自分の物になって来る。どの様な事があっても、驚かんですむ、ね。常に任せると言うてです。それが、はっきりしておる訳ではない。その事柄というものは、実に、漠然として、何がなにやら分らないのですけれども、こうと答えが出来んけれどもです。それこそ、オブジェ風のピカソが描いた絵のようにもありますけれども。それは、最高の、言うならば、技術者が描いた絵であるのが、ピカソの絵であります様に、分からん。分からんけれども、やはり、おかげはおかげだという事でございます。ね。そういう世界に住まわせて頂く信心を身に付けて行きたい。金光様の信心を頂いておるから、金光大神の世界に住んでおるという事ではない。金光大神の世界に住むという事は、ね。それこそ、もう、これもおかげであると極めた言葉、極限ですけれども。それが自分の身に、いよいよ、着いて行く。しかも、これは限りがないこと。ね。そういう信心を、一つ身に付けて行きたい。
そこに、初めて、心の中に、この迷いを生じる。心が穏やかでない。これでは、例えば、仕事をしておりましても、仕事が手につかん。ね。もう、只今申します、御用の上にでもです。心行の後の、心の清々しさをもって、その御用に、本気で取り組む。そこに御用の楽しさも出来てくりゃ、また、信心修行の楽しさも出来てくる。金光玉のご信心は、どうでも、いわば、御神前に向かう、御祈念をする、心行をするという事に喜びを感じさせて貰えれること。同時に、その心をもって、御用に当たらせて頂くという事。ただ、拝んでばっかりおりさえすりゃ良いという事ではない。今まで、二つの仕事が出来ておったならば、三つの仕事が出来るようなお繰り合わせを、そういう、一つのファイトが湧いてくるような信心を頂きたい。そこから、私は、いよいよ、ひとりでに出来てくるようなおかげにも、触れていくことが出来ると思うのです。どうでも、一つあの、ひとりでに物が出来るようなものじゃと言われるようなおかげを、自分の身の上にも、自分の一家の上にも、現して行きたいものであります。どうぞ。